But you are you

ふんわりジャニオタ一年生

UTAGE!の『高嶺の花子さん』が劇薬だった件

令和元年八月二十二日、通称“ニカ嶺の花子さん事件”が発生した。

事の発端は、TBS系列でその日放送された音楽バラエティー番組『UTAGE!』。当番組内で、CHEMISTRY堂珍嘉邦・舞祭組の二階堂高嗣AKB48柏木由紀・外国人ダンサー4名が『高嶺の花子さん』(原曲:back number)をKABA.ちゃんによる演出で披露した。しかし放送後、二階堂高嗣のオタクが突如泣き出したり体調不良を訴えたり『高嶺の花子さん』を延々と聴き続けたりポエムをインターネット上で発表したりといった症状を訴えるようになる。本記事では、当該事件の真相解明を目的としはい!つまんない茶番はおしまい!

 

 

二階堂くんたちの『高嶺の花子さん』、やばかったね……

あのパフォーマンスがしんどすぎて思いを馳せては泣いてるし、原曲の『高嶺の花子さん』も聴く度に泣いてる。ついでに、ずっとあのパフォーマンスの物語を考えてる。拗らせすぎてはてブロにまで着手してしまった。ついでに9000字超えた。

 

 

今回はパフォーマンスの設定やストーリーを解釈したものを書いていきたいんだけど、「Kis-My-Ft2兼舞祭組の二階堂高嗣」と「二階堂くんが演じる冴えない青年」がごちゃごちゃになりそうなので、ここから先はパフォーマーの方々を「二階堂くん」「堂珍さん」「柏木さん」「外国人ダンサー」と表して、演じた役を「タカシ」「ヨシクニ」「ユキ」「グッドルッキングガイ」と表することにします。

 

そして、カメラに映ってないときの様子が分からないので、この解釈を覆すような振り付けが実はありました!なんてことになってるかもしれないけど、あのカット割含めて「UTAGE!の『高嶺の花子さん』」だったと思うことにします。いやでも定点カメラ欲しいな……あの3分半の全貌を見たかったな……っていうかまたやってくれないかな……

 

1.登場人物の設定について

1-1.タカシ・ヨシクニ

 練習風景のVTR曰く、タカシとヨシクニは一心同体だそう。きっと、タカシの中にいる「もう一人の自分」的なやつがヨシクニなんだと思います。そして、ヨシクニはタカシの眼鏡を外して背中を勢いよく押す。どうやらヨシクニはもう一人の自分の中でも、「僕にだってできる!」という強気な思いを示すらしい。

 

1-2.ユキ

ヒロインのユキは勿論タカシの片想いの相手。ただ、『高嶺の花子さん』の歌詞は全てタカシの感情だけを綴っている。つまり、タカシの目の前で踊るユキは「ユキに会いたいなあ」「ユキはこんな子だよなあ」というタカシの妄想の具現化に過ぎない。

 

1-3.グッドルッキングガイ

グッドルッキングガイも、ユキ同様タカシの妄想の世界の住人。彼らが登場するのは、残念ながらカットされてしまった2番の歌詞。

君の恋人になる人は モデルみたいな人なんだろう

(中略)

駄目だ何ひとつ 勝ってない
いや待てよ そいつ誰だ

タカシが考える、「なんかよく分からないけどユキにはこんな人が似合うんだろうなあ、一切敵わないなあ」という謎めいた男がグッドルッキングガイ。

 

 

2.ストーリーについて

2-1.『高嶺の花子さん』の歌詞を確認

まずは原曲『高嶺の花子さん』の歌詞を確認してみる。

この曲は、「君と恋人になりたいけど僕には無理😢僕なんかじゃ敵いっこない男と恋人になりそうじゃん😫君が僕のものになる魔法とか呪文とかないかなあ🤔ないか😅」「もし僕が君に近づこうとしたってどうせ……😨」「君は◯◯味のアイスが好きそうだなあ……ぐへへ😋」という、ハイパー卑屈ヘタレ男の妄想を綴った曲です。なんかめっちゃディスってるみたいだな、万が一back numberさんのファンの方が見てたらごめんね。

 

歌詞をとっても雑に確認したところで、ここからはパフォーマンスメインでUTAGE!の『高嶺の花子さん』の解釈をしていきます。

 

2-2.タカシとヨシクニ

ヨシクニがベンチに座るタカシの眼鏡を外し、(物理的に)背中を押すところから物語は始まる。

ただ、ヨシクニはタカシの頭の中に居座るもう一人のタカシにすぎないので、現実では、ヨシクニが(感情の比喩として)タカシの背中を押したことになる。ちなみにここから先に登場するユキもグッドルッキングガイもタカシの妄想の世界に生きる人たちだと考えると、あの3分半はタカシがベンチに座って妄想していただけということになります。タカシがベンチでぼーっとしてるだけの画に『高嶺の花子さん』が流れてるのを想像するとシュール。

未熟ともいえるほどに後ろ向きなタカシを20代の二階堂くんが、そんなタカシの中にいる強気な人格であるヨシクニを40代の堂珍さんが演じているので、この場面はさながら「アニキの激励」みたいなものにも見える。これから先、物理的に大人になっていくタカシはどう変わっていくんだろうね?タカシの未来の姿はヨシクニみたいなのかな?そんな想像も膨らむ。

 

ヨシクニがタカシの背中を押す前に彼の眼鏡を外したということは、この物語で眼鏡が「冴えない男の象徴」にされているということ。古来から地味なキャラクターは眼鏡を掛けがちだけど、この物語もそのテンプレに添ってるらしい。にしても眼鏡二階堂くん(唐突に演者の話をする)ハチャメチャにビジュ良くね?なんで?元々顔が良いから?あと髪?29歳?万歳!

 

少し時系列が遡るけど、この曲はヨシクニのアップから始まる。

ヨシクニとタカシの関係はのび太ドラえもんの関係にも似てるような気がする。のび太の元に現れたドラえもんのび太を成長させていくように、タカシの元に現れたヨシクニがタカシを成長させようとする。ヨシクニも青い服着てるし。あ、それは関係ないか。

だから、ヨシクニのアップでこの曲が始まったのは、「タカシにとってのドラえもん(=ヨシクニ)の登場がこの物語の始まりだ」と強調するようで。さあ、タカシは成長できるかな?

 

2-2.ユキとグッドルッキングガイ

ユキと4人のグッドルッキングガイがきらびやかな世界を作り出す。グッドルッキングガイに囲まれたユキの勝気さと上品さが両立した表情が「高嶺の花」そのものですごい。一方でタカシはユニクロで売ってそうな服を着て自信なさげに立っている(ユニクロ関係者の方々に深く謝罪申し上げます)。このパフォーマンスにはユキ達とタカシの対比が嫌になるほど詰め込まれているけど、それすらもタカシの妄想だと考えるとひたすらに苦しい。

 

1-3.でも触れたけど、グッドルッキングガイは2番の登場人物。2番を削った分、この時点でグッドルッキングガイを登場させたのだと思う。「J-POPの名曲は2番の歌詞が素晴らしい」だなんて「エジソンが偉い人」なのと同じくらいの常識なんだから、日本の歌番組は2番をカットする癖を早く直してくれ。ピーヒャラピーヒャラ(脱線)

ただ、「タカシvsユキ」の構図よりも「タカシvsユキとグッドルッキングガイ」の構図の方が残酷に映るので、それは2番がカットされた怪我の功名だよね。

 

グッドルッキングガイの役を4人の外国人ダンサーに割り当てたことは本当に上手な演出だと思った。決めた人のギャラを10倍にしてほしい。

上手いなあと思ったのは、まず、ユキをスーツ姿の外国人男性が取り巻く姿が洋画に出てくる要人のSPみたいに見えて、それが威圧感に繋がっているということ。タカシの心にある畏怖と劣等感が強調される。

それ以上に、「4人の外国人」が非現実性を醸し出していることが天才。スーツを着た外国人男性がユキの周りにいる様子は漫画や映画でしか見ないようなもので、現実みがない。人数が4人もいるのも、タカシがユキの相手を具体的に想像できないことを示しているように見える。タカシがグッドルッキングガイに抱くコメントは

いや待てよ そいつ誰だ

だけど、それをこれ以上ない形で体現していると思う。

 

2-3.タカシのソロダン

「(海に誘う勇気も)車もない」と歌いながら両手を後ろに振り回すのは、歌詞通り「あれもない、これもない」ってアピールしているのかな。でも、やけくそになって暴れているような振り付けなのに、行き場のない自己嫌悪に苦しむ繊細さが透けて見えてしんどい。

 

続く「でも見たい」では、舞祭組ポーズの手のひらを裏返しにしたような振り付けがある(語彙がねえ)。両手で閉じたふすまをそっと開けるように見えて、さながらストーカー。だけど、今回も気持ち悪さはあまり感じない。タカシの必死な表情や繊細な動き方を見ていると、何故だかタカシを応援したくなってしまう。

 

このパフォーマンス全体に言えることだけど、タカシの卑屈なところも内向的なところもその割に妄想だけはご立派なところも「しんどさ」として視聴者の目に映るところが怖い。

「『そんなに会いたいなら自分から動け』『そこまで卑屈になるな』『っていうか単純にキモい』といった感想を、実はタカシ自身が抱いているんだろうな」と私たちに感じさせるギリギリのレベルでの表情や動きを二階堂くんは演じている。いや天才かよ!?

 

2-4.踊るユキと街灯から覗くタカシ

会いたいんだ 今すぐその角から 飛び出してきてくれないか

原曲では飛び出してきてほしいと願うだけだったけど、今回タカシはユキが「その角から飛び出してきてくれ」た場面を想定している。飛び出してきてくれたユキは、相変わらずグッドルッキングガイと一緒。再び5人の華やかな世界が展開する。

その頃タカシはなんと街灯に掴まっていた。「会いたい」と願ったくせに、いざ鉢合わせそうになると自分から遠ざかってしまう。

 

そして、タカシがすこし屈んで街灯に掴まっている一方で、ユキはグッドルッキングガイに持ち上げられて物理的に舞い上がる。タカシは下に向かい、ユキは上に向かう。

 

 

ところで、このサビの歌詞が激ヤバのヤバだったから共有させてほしい。 

夏の魔物に連れ去られ 僕のもとへ

まずこのワードセンスが悲しい。ヒロインが魔物に連れ去られる行き先って、ほぼ100%悪役の元じゃない。さらわれたピーチ姫はクッパ城に行くわけで、マリオの元には行かないじゃん。タカシは自分をクッパだって思ってるの?

思えばBメロであった「君を惚れさせる 黒魔術は知らないし」も同じ。お前は悪の魔法使いかよ?ここまでナチュラルな自己卑下見たことある?

生まれた星のもとが 違くたって

そして、タカシのナチュラル自己卑下ムーブに心を痛めていると、今度は今までの演出で強調されてきたタカシとユキの生きる世界の違いが歌詞にも登場する。

でも、貧しい家に生まれた少年少女が努力して成功するおとぎ話も、小柄な主人公が体格のハンデを背負いながらもスポーツ選手として大成するスポ根漫画も、この世にありふれている。「生まれた星のもとが違くたって」、タカシはユキと近づけるかもしれない。

偶然と夏の魔法とやらの力で
僕のものに

ん?

いや自分で頑張れよ

ここで思い出してみると、「角から飛び出してきてくれないか」も「夏の魔物に連れ去られ僕の元へ」も受動的な言葉。「タカシ😭そんなに自分のこと悪く言わないで😭」なんてしんどくなってたけど、それにしてもあんたはもうちょっと自分で何とかしなさいよ。

こんな風に、このサビの歌詞では二重の意味でタカシのヤバさが顔を出す。 

 

2-5.タカシとユキのダンス

この胸の 焦りに身を任せ 君のとこへ走ったとして 実は僕の方が
悪い意味で 夏の魔法的なもので 舞い上がってましたって 怖すぎる
オチばかり浮かんできて

ユキにかかる魔法は「僕のことを好きになってくれる魔法」なのに、自分にかかる魔法は「僕がピエロになってしまう魔法」なタカシ。相変わらずのナチュラル自己卑下をやってのける。

 

シャツに自分の手を突っ込む振りがあまりにも原始的で、低予算なアイドルのMVかよと思ってしまったんだけど、「焦りに身を任せ」たとはいえタカシが自分から動き出したことを象徴しているのかなと考えてる。あと腹チラ。

 

タカシはグッドルッキングガイと一緒にベンチで談笑していたユキの手首を掴み、グッドルッキングガイから離れたステージ中央に彼女を連れ出す。余談だけど、タカシが一人で物思いに耽っていたベンチがユキ達の談笑の場になっているのがすごく残酷。

可憐な女性の手首を掴んで引きずり出すというのは一見すると野蛮オブ野蛮な行為だけど、タカシの下に向き続ける視線や小股で後退りする姿を見ると、彼の必死さが気になってしまう。ここでも、繊細さからくる乱暴さみたいなものをタカシの動きから感じる。

 

そしてタカシはユキの前で踊る。ユキも最初は戸惑っていたけど、お得意の上品な笑顔でタカシと一緒に踊る。まるで、「もしも初めて二人で食事に行ったら」という光景をダンスで表現しているかのよう。

初見では「タカシ、ユキと対等に踊れてるじゃん!」と感動した場面だけど、見返してみればそんなことなかった。ユキは相変わらず上品に優しく微笑んでいるのに、タカシの表情には笑みも余裕もない。ユキとお近づきになれたifを想像しているときにさえ、自分とユキの心の溝が消えることはないのか。

このダンスシーンのユキの微笑みで、「たかが知人Bに向けられた 笑顔があれならもう 恐ろしい人だ」と視聴者も痛感することになる。最初は戸惑っていた、つまり一緒に踊る相手として見ていなかったタカシに、グッドルッキングガイに向けるものと同じ笑顔を向ける。この場面でユキがクソビ〇チとしてでも性悪高飛車女としてでもなく、気高く優しい女性として映っているのがすごい。

 

2-6.背中合わせに座るタカシとユキ

真夏の空の下で 震えながら 君の事を考えます

「真夏」という爽やかで眩しい言葉と、「震えながら君のことを考えます」という気持ち悪いじめっとした暗い言葉。

私はこんな風に明るい言葉と並んだ暗い言葉がよりいっそう切なく響くのが大好きで、今も夏井いつき先生の「添削なし!」って声が頭に響いてる。そして、この対比はユキとタカシをそれぞれ喩えた言葉のようにも見えて。

 

好きなアイスの味はきっと

このフレーズからタカシとユキの距離感を考えてみる。

「好きなアイスの味はなんだろう」なら、タカシはユキの好きなアイスの味を知らないくらいユキから離れた存在だと分かるけど、それでおしまい。だけど、「きっと」と言うタカシは、ユキの好きなアイスの味を妄想して楽しんでいるっぽい。オタクのTwitterか?現実のユキとは大した会話も交わせていない(と思う)のに、妄想の中のユキの輪郭だけがはっきりしていく。

ところで、このブログで一番どうでもいいことだけど、もし今これを読んでいる方の中にハーゲンダッツジャパンの関係者の方がいらっしゃったら、今年の2月に出た「カナディアンメープル&ウォルナッツ」を定番商品化してください。
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だけど、パフォーマンスでは、タカシはユキの好きなアイスの味だけを考えているわけではなさそう。ユキと背中合わせに座るタカシのカットは、ユキのことを考えるところから派生して自分のことまで考え始めたように見える。

私がこのパフォーマンスで一番しんどかったのは、この時のあまりにも対照的な姿。顔の大きさの話じゃなくて座り方の話だよ。ユキは凛と背筋を伸ばして座っているのに、タカシは自信なさげに背中を丸めて座っている。表情も、気高く微笑むユキと不安げにユキの方を見ようとするタカシ。

タカシにとってユキのことを考えるということは、ユキに届かない自分と向き合うことでもあるのかな。強く美しいユキと弱く醜い自分、前を向いて生きるユキと近づくことすらできない自分……

この猫背で何度かガチ泣きしてるので、これが二階堂くんのアドリブだったらどうしようかと真剣に悩んでいます。

 

そして、座る直前にも立ち上がるときにも、冴えない青年にしてはやたらと長い足を地面と平行に伸ばしてユキを見上げるタカシのカットが入る。「ユキが上、僕が下。」ぶれない認識。

 

2-7.6人でのダンス

今度はグッドルッキングガイも混ざって6人でのダンス。ちなみにタカシがユキ達と同じ振り付けで踊るのは、3分30秒のパフォーマンスの中でこの30秒足らずだけ。

このことは「ユキ達の世界にタカシが入り込んだ」とも、「タカシの世界にユキ達がやってきた」とも解釈できるけど、後にタカシがグッドルッキングガイにつまみ出されることを考えると前者っぽい。

そして、特筆すべきなのは、6人で踊ってる振り付けが、「飛び出してきてくれないか」まではタカシがソロで踊っていたものと同じで、「夏の魔物に連れ去られ」はタカシが街灯に掴まっている時にユキ達が踊っていたものと同じだということ。前半はユキ達がタカシのダンスを踊ってくれて、後半はタカシがユキ達のダンスを踊ることを許されている。特に、「会いたいんだ」と歌いながら手を広げ、「その角から」と歌いながら腕を直角に曲げ、「飛び出してくれないか」と歌いながら両手を胸に当てる、タカシの感情をそのまま表した踊りをユキ達が踊ってくれたことはとんでもないことだと思う。

「自分には縁がない」と卑屈になるほど憧れていたユキ達の世界に、タカシは歓迎されている。やったねタカシ!おめでとうタカシ!……と思ってよく見てみると、ここでも表情が一人だけ暗い。


華やかなユキ達の世界で歓迎されるタカシ(=ユキ達と同じ振り付けで踊る自分)と、やっぱりユキ達のようにはなれないタカシ(=ユキ達のように笑顔で踊れない自分)が存在する。

そして、

なるわけないか

この世界にそぐわなかったタカシはグッドルッキングガイにつまみ出されてしまう。

 

でも、グッドルッキングガイが悪者かと言えばそんなことはないと思う。「好きなアイスの味はきっと」の辺りで、グッドルッキングガイは笑顔でユキとタカシを指差していた。ユキに向ける笑顔と同じ笑顔をタカシに向けているということは、彼らにもタカシを自分達の世界に歓迎する思いは十分にあったということ。もっと言えば、6人で踊るフォーメーションにタカシを入れたのもグッドルッキングガイ。じゃあなんでつまみ出したかって?そりゃあ一人だけ表情違うから、ねえ……

 

原曲を聴くと1コーラス目も「なるわけないか」で終わっているんだけど、今回そこをカットしたのは英断だったと思う。このフレーズは、今まで重ねてきたユキとの妄想を強制的に打ち切る言葉だから。「解答用紙を後ろから前に回してください」「ご愛読ありがとうございました!〇〇先生の次回作にご期待ください!」と同じようなもの。最後の最後に一回だけこのフレーズを使ったことで、タカシが現実の冴えない男に戻ってしまったというオチが引き立って、一つの物語が完成する。(調べてみたらback numberさんもワンハーフで披露する時は1番の「なるわけないか」をカットしているらしいですね。)

 

2-8.別の世界へ帰るタカシとユキ達

再び、ユキとグッドルッキングガイの世界を見るだけになってしまったタカシ。ただ、今までとはその理由が違う。

街灯から覗いていた時は、ユキ達が来たのを見て自分から遠ざかっていった。つまり、自分から見るだけの立場につくことを選んだ。一方で、今度はグッドルッキングガイにつまみ出されたから遠ざかる羽目になってしまった。見るだけの自分になりたかった訳ではない。

悲しいのは、「ユキ達の世界に入ったら拒絶された」という失敗をタカシが経験してしまったこと。そして、拒絶される結果をタカシが勝手に妄想していること。

実は僕の方が
悪い意味で 夏の魔法的なもので 舞い上がってましたって 怖すぎる
オチばかり浮かんできて

 

グッドルッキングガイに囲まれて軽やかに去っていくユキ。とぼとぼとベンチに戻るタカシ。n回目の悲しい対比構造を見せつけられる。

 

2-9.タカシとヨシクニ

冴えない男の象徴である眼鏡を再び掛け、ヨシクニを不満気に見つめるタカシ。

この表情は、「やっぱりダメだったじゃん」と、背中を押した張本人であるヨシクニに怒っているようで。一見コミカルなオチに見えるけど、よくよく考えてみれば、踏み出せなかった自分への呆れや悔しさが表れているようで悲しい。ここで二階堂くんが息切れしてるんだけど、それもタカシの抱える辛さを表現しているように見えてくる。二階堂くんが説明していた「近づきたいけど近づけない、こんな僕はダメだ」というタカシの感情の、「こんな僕はダメだ」が一番強く出ているのがこのラストだと思う。っていうかタカシが怒った顔を見せられる相手はヨシクニしかいないんだろうな……

 

二階堂くんのコメントを無視すれば、タカシがユキに近づけないことで自己嫌悪を拗らせていることがはっきり分かるのはこの瞬間。今までタカシの表情や動きからなんとなく読み取っていた、「タカシはユキに近づけない自分の弱さを理解していて、そんな自分を好きになれないんだろうな」という予想が正解だったと分かる。

さあみんな、タカシの中にこんな葛藤があることを踏まえてもう一度頭から見返してみよう!さっきとは見え方が違ってくるはず!

そして、ユキへの劣等感から近づけず、近づけないことで自分を嫌いになり、自分を嫌いになればなるほどユキとの差が開いていく…… という悪夢のような無限ループまではっきりと見えてくる。

 

ただ、私はこのラストをバッドエンドとは思わない。それは、ヨシクニがタカシから悪びれる様子も一切なく目を背けてるから。ヨシクニは反省する素振りを見せないし、後悔もしていない。きっと次がある。またいつかタカシの元にヨシクニが現れて、タカシの背中を押す。

タカシがユキに近づける日が来るのかは分からないし、何かしらのアクションを起こせる日が来るのかも分からない。タカシが前向きになる日が来るのかすら分からない。だけど、タカシの心の中に住むヨシクニがタカシにチャンスを与えてくれる日は絶対に来る。

堂珍さんの歌う『高嶺の花子さん』は、清水依与吏さんの歌うオリジナルに比べてやや落ち着いていて、大人びているように聴こえる(分かってると思うけど、優劣の話はしてないよ)。そんな堂珍さんの歌は、ほろ苦い世界観にほんの少しだけ添えられた「タカシは今後変われるかもしれない」という希望を象徴していたんだと、この時ようやく気づく。

もどかしさと切なさの中に、ほんの少しの希望を混ぜ込んで、この物語は一旦幕を下ろした。

 

最高か?

 

そうなんですよ、UTAGE!の『高嶺の花子さん』は何もかも最高だったんですよ……

 

ダンスだけじゃなくて演技を交えたことも最高。ユキとタカシの対比を最後まで見せ続けたのも最高。1周目と2周目で見え方が変わってくるのも最高。ギャグのようなオチにもバッドエンドにも希望が残る結末にも見える終わり方も最高。タカシ達の未来が視聴者に委ねられているところも最高。 

え?これ刺さらないオタクいる?少なくとも二次元オタクとか映画オタクとかのストーリーものが好きなオタクには絶対刺さるでしょこんなん!(主語がでかいぞ)

 

このパフォーマンスがUTAGE!という1番組の1コーナーで済まされてしまったのが贅沢すぎて震えている。ドラマ化しろとか映画化しろとかフルでやれとか考えていたけど、この3分半に全てが詰め込まれていたことを含めて最高だった。でも勿体ない。まだ見ていたい。10月のUTAGE!でもやってほしいし、MVとして世に流通してほしい。夢は言うだけタダだから、いくらでもクソデカ大声で言う。そして、このブログをどう締めれば良いのか分からなくなってきたので、最後に一番やってほしいことをクソデカフォントで言う。

 

高嶺の花子さんでツアー回って!!!!!!!